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2007年 01月 14日
危機管理ということで
依然こう書いた。 そもそも「管理」できる「危機」ってなんのことだろう?「管理」できる「危機」って、はじめから「危機」ではなく「安全」なんじゃないか?だから危機でもなんでもない「安全」なことを「危機」と騒いで不安を煽り、煽情し、しまいには、「危機」だから協力せよ、さもないと、反逆罪で逮捕するぞ!とする、退屈な「管理社会」のメロドラマを書き続けているのが危機「管理人」ということではなかいか。 ここにも、偶像崇拝がある。 いつ、どこで、どのように起こるか分からないのが「危機」であり、 それを管理できるというのだから、それは超人、偶像崇拝者である。 とはいうものの、それはものを売たっり、買ったりすることの現実から生まれてくる。 誰にもどれだけ売れるかは分からない。 多分売れるだろうという「信」じること、 ここに宗教が必要とされる現実があり、 だから、誰もが偶像崇拝者になりうるのである。 それが「現実」である以上は、 偶像崇拝をいけないといったところで それはなくならない。 「宗教はアヘンである」とマルクスはいっている。 けど、一般にいわれているような 宗教はアヘンだからダメだというのではなく、 アヘンがダメだというのであれば、 アヘンを必要とする現実を変えねばならないということだろう。 その現実とは 売ると買うのあいだにある 危機、つまり、売れるか売れないか 分からない、その亀裂に 偶像崇拝(宗教)を必要とする現実がある。 この現実を変えなければ アヘン・宗教はなくならない。 しかし、この現実の危機を 現状において解決を諮ろうとすると どうなるか。 汚職である。 官僚機構は売ると買うの貨幣交換ではなく、 略奪と、永続的に略奪を行うための再分配の収奪機構である。 ここには売ると買うのあいだにある 危機、売れるかどうか分からないということはない。 だから、ここには宗教はない。 むしろ、信仰の対象とされる。 再分配に群がる人々が 官僚を崇拝の対象としてしまうのだ。 ここには、確実な需要がある。 確実とは、需要があるのか ないのか分からない、 売ると買うの交換関係からみたとき、 それは確実であるといえる。 ただ、分からないのは 誰にその需要がわたるのかだけが 分からない。 とはいえ、それと確認できる対象として 官僚いるのだから、 それを自らに引き付けようと、 ここに汚職が生まれる。 逆にいえば、 買ってもらえる対象がハッキリしていれば どこにも汚職は生まれるのだ。 ただ、汚職しようにも、 だれに汚職していいのかが分からないというのが 売ると買うの交換関係における非対称性なのである。 ここに、宗教が 要請される「現実」がある。 この宗教の位置に 官僚機構があるからこそ、 官僚機構は 「お上」(お神)であり、 陳情の対象にもなる。 それが、 略奪と、 永続的に略奪を行うための再分配機構が 官僚であるという現実を見えなくしてしまう。 これって、 どこか 男女の関係にも 似ているように思える。 ただ、 類似は「同じ」とは違う。 「同じ」のありようが 違うのだ。 その違いが 愛 だ!、といいたい。 2007年 01月 13日
もう「エッチ大」とは呼ばせない 英知大学が校名変更へだそうだ。
「インターネットで検索すると アダルト系雑誌の発売元の英知出版がヒットする」が「問題」だという。 だが、こんな学校は、それ以前ではないか。 こんなことを問題といって憚らないことが問題なのではないか。 そもそも、「英知」と「エッチ」は違う。 でも、今回、このように変更するというのであれば、 この学校は「英知」と「エッチ」を混同し、同じだということを、 自らの行為によって認めたことになるのではないか。 どうやら、彼らは「エッチ」を排除するのに 「英知」を捨てる。 それが、彼らの「英知」ということらしい。 でも「エッチ」って何だ? セックスとは間違っても「同じ」ではないし、 仮に、「エッチ」をセックスと混同するところには セックスはもともとない。 区別を巡る接触こそが セックスであり、 ここに英知があるはずなのだが。 混同には英知はない。 それはそうと、こうして「エッチ」を排除することが 彼らにあっては正しいことらしい。 このように排除と選別をすることが 「危機管理」だとでもいうのか、 (このことを「危機管理」という) いわないのかは 知らないが、 これは教育ではないことだけは確かだろう。 教育とは、 「英知」と「エッチ」の区別をつける力を養うことであろう。 この力を「英知」というのではないのか。 このような排除と選別による 名称変更は 生徒及び保護者に対する配慮とでもいうのか。 ここにも排除と選別の差別を 愛(配慮)と言い換える、 欺瞞がある。 なるほど、 「高校生が志望校をネットで検索する今、イメージは重要で、対応が必要と判断した」 という。 だが、イメージで学校選択を「判断」することを この学校は求めているということか。 「判断」とは区別をつける力のことである。 イメージは逆に、 区別を糊塗し、区別をつける力を奪うことでしかない。 ここには、子供を前に語る 教育者・松井秀樹はいない。 イメージとは何だ? 偶像崇拝の「偶像」がそれだ。 イメージを崇拝する。 それは、どんな事態をもたらすのか。 例えば、それはこれだろう。 自分は今年36歳になる。10年前に10年後の今をどう考えていたか、思い出さない。恐らくなにも考えていなかったのだろう。だから思い出しようがない。ならば、10年後の今をどう考えるか。殆ど、なにも考えない。それは今考えているという条件を超えられないからだろう。その条件を超えられると人に思わせる装置が「宗教」だと思う。宗教というかたちをとっていなくても、今という条件を超越してしまう、それを「宗教」と呼ぶ。「計画」がそれだ。「計画経済」をうたった共産主義は崩壊した。共産主義は「計画」をそのまま未来に投影する。その投影した計画をルールや法といって、それで人を拘束し、それ以外のものを排除する。ここからは臨機応変の機敏さは衰退し、やる気も奪われる。ここに荒廃が蔓延する。その首謀者は行政だ。 更に、これだ。 偶像崇拝とは「今考えているという条件を超えてしまう」ことである。この「今という条件」の「超越」ということで「イスラム教世界対欧州のキリスト教世界」は対立しているのではなく「結託」が起きている、それがここでの事態なのではないか。 “愛ルケ”を女性専用に上映 大阪で、性描写配慮し全国初こんなのもあるらしい。 これも配慮ということなのかしらん。 「描写された性」があるのではなく、 描写する行為が性であれば、 「女性専用」に設えられた小屋こそが 「流刑地」そいつはグアンタナモか。 2007年 01月 13日
米国移籍を決めたサッカーの元イングランド代表MFデビッド・ベッカム(31)=Rマドリード=が、米国の4大プロスポーツに挑戦状を叩きつけた。米国行きの目的について「米サッカーのメジャー化」と宣言。同じく米国に殴り込みをかける大リーグ、レッドソックスの松坂大輔投手(26)を超えるカリスマ性で、全米スポーツ界を制圧する、とのこと。
ウソ付け! フットボールが世界であり、 フットボールをサッカーということのほうが 世界的にマイナーである。 英語を話すものと 日本人ぐらいだろう、 フットボールをサッカーといっているのは。 これだと、多くの人と会話ができない。 野球がオリンピックの競技から外れる程度に、 サッカーという言葉を使う人は圧倒的にマイナーなのだから。 アメリカにはスパニッシュ系の人が大勢いる。 彼らはフットボール ファンである。 だが、サッカー ファンではない。 だから、サッカーはマイナーなのである。 すると今回の「米サッカーのメジャー化」とは、 フットボール ファンにサッカーを強要しようということだろう。 だが、この勝負は既についている。 フットボールには サッカーにはない 快楽がある。 フット ボールには 足とボールをどのように 接触するか、させるかを巡る快楽がある。 これはセックスだ。 接触を巡る生死こそ セックスである。 フットボールにはエクスタシーがある。 ゴールこそ 最高潮に達したときの 愉悦であろう。 だが、 サッカーには これらはどれもない。 すべては排除され、 接触不能のインポテンツである。 だから、サッカーは去勢装置だろう。 サッカーはグアンタナモだ。 人と土地を接収し、 接収した土地を牢獄化し、 アラブ人であるというだけで 生存することの自由を接収していく。 あらゆる接触を接収する、 去勢・収奪装置がグアンタナモだ。 これは甦ったアウシュビッツではないか。 サッカーには帝国主義の匂いがする。 接収した土地に転がる髑髏(されこうべ)をボールに 蹴りつける英国サッカー・帝国主義がある。 それを 軽やかな フットワークにしてしまった 強制労働者の フォト ボールこそが 非戦・快楽主義者ではなかったか。 ベッカムが“不毛の地”米でサッカーのメジャー化宣言! バカバカシイ! 不毛は君らのこと 英国・ベッカム・米国・サンケイではないか。 インディアンの アイヌ人の 豊饒な地との接触を 接収し、植 民 地を強要することで 不毛にしたのではなかったか。 分からんのだろう。 支配を愛といって憚らぬ輩には。 ホナウジーニョのフット ボールはセクシーでも、 ベッカムの、サッカーはインポテンツだ! 自らの股のしたのボールをパートナーに クイアーダンスするホナウジーニョこそ、 運動することの喜びそのものではないか。 ここにベッカムをもってくることが憚れるほどに、 プレイスキックしかできないベッカムはインポテンツだ。 ボールと接触することから離れ、 接触することを接収するプレイス キックはインポテンツ、 マッチョ、蹴たぐり、帝国暴力主義に思われる。 ぐらいに、 股の下のボールと 徹底的に戯れるホナウジーニョの接触を目の当たりにした サポーターの興奮に接触すれば、 フット ボールに未来は微笑んでいる! サヨナラ!英国・ベッカム・米国・サンケイ・帝国主義者・サッカー good-by stand-by foot ball !!! fun 2007年 01月 12日
何をしようとしているのかサッパリ分からない
こういう反応に触れて、どうしてか、 北海道のことを思い出してしまった。 日本の植民地支配は北海道にはじまる。 その北海道にはクラーク博士が来ている。 その教え子に内村鑑三がいる。 内村はアメリカに農業を学びにいったのだった。 ここに農業という土地支配にはじまる 日本の植民地支配の原型があろう。 ここにキリスト教が加わり 「愛」が語られる。 つまり、日本の植民地支配政策はアメリカから学んだものである。 では、アメリカのそれはどういうものだったかというと、 例えば、野蛮な国家に「自由と平等を教える」ということにある。 それは、アメリカと対等な関係に自立することであり、それは正義であり愛である。 このとき、加害者としての意識はなくなる。自分たちと「同じ」にしてやるのだから、 感謝させこそすれ、恨まれることなど想像すらできなくなる。 これは、それまでの西洋列強による植民地支配とは明らかに異なる。 西洋諸国は露骨なまでの支配-被支配の関係を強要した。 よって、ここには加害者としての意識が 被害者のみならず、 加害者の側にも残る余地がある。 翻って、日本はどうか。 満州帝国は西洋列強の支配からの解放である。 われわれは、支配するのではなく、 彼らを日本人として同等に、 われわれの愛によって扱うものである。 例えば、朝鮮では 彼らの名前である固有名を剥奪した。 だが、それは支配ではなく、 日本人名を愛によって与え、 同じ日本人として扱うのであって、 なんら迫害するものではない。 無論、ここにもアメリカ同様、 加害者としての意識など 露としてなく、それは愛によるもので、 われわれは感謝されこそすれ、 恨まれることはなにもしていないとなろう。 更に、翻って北朝鮮を見てみると、 いかにも日本の植民地支配から学んだ成果が見て取れないか。 将軍様の「愛」によって われわれ同胞は幸せである。 この光景を見るにつけ、 奇妙な違和を感じてしまうのは、 明らかに支配されているのに、 それを「愛」といっていることにある。 だが、それこそが アメリカ・日本の植民地支配の姿なのであり、 それは今なお、 日本国内の護送船団方式・官僚支配の中にある。 官僚(天)様のおかげで 今日の日本の発展はある。 それは支配ではなく「愛」なのである。 あるいは、イラクにおける 「復興支援」の支援にもある。 それは「愛」による支援であり、 支配ではない。 更に、卑近な例では、親子関係にもそれは見て取れる。 「ママはあなたのことを思って言ってるのよ」と、 どこでも聞きそうな「愛」による支配である。 ここに、西洋諸国における あからさまな父権的支配による、 服従と従属の関係では捉えられない、 歪んだ「愛」による支配関係があるように思えたならない。 これが、 分けがわからず、むかつき、切れる、 「いじめ」などに露呈してしまうんじゃないか! 「愛」が支配なんてね! ちょっと、おかしいもん! そんな「愛」はいらない。 支配を「愛」と言い換える、 そんな歪んだ、いびつな「愛」だったら、 そんなものポイとゴミ箱に捨ててしまった方が どんなにか、気が楽で、すがすがしいしことか! こんなゆがみを「愛」とって はばからないところに、 公正な判断なんてつきようがないもん、ね! 日本には「愛」はない。 だから、恋愛もない。 恋愛したけりゃ、 出エジプト改め、 出ジャパン、エクソダスするしかない! Bob Marleyでも聴こ、っと! 2007年 01月 12日
学校のクラスで、嫌いな時間が沢山あった。
というより、好きな時間の方が断然少なかった。 今から思うと、よく通ったといった方がいい。 その中でも特に嫌いなのが「音楽」と「国語」だった。 「国語」は教師の解釈のお仕着せばかりで、 あなたがそう思うのは勝手だが それを迫るのは耐えがたかった。 「音楽」はもっと耐えがたかった。 「音楽」を聴く前から解釈を強要される。 教室の周囲には肖像画が居並び どいつもこいつも難しそうなしかめっ面ばかりだった。 それだけで、説教されているようで逃げ出したくなる。 その上、教師の解釈が加わってくる。 表記されているものは゛みる”ものであり解釈するものではない。 音は聞くもので解釈するものではない。 そんな時は あれこれ空想に耽るか、 鼻歌でも呟くか、 ブラジルの友人が教えてくれた 次のサイトで De ontem em diante を聞きながらそんなことを思い出した。 そして、解釈は勝手にやればいい。 それは人様に向かって語るものではない。 その確信を与えられたのも ブラジルはサルバドールで過ごした日々だったように思う 今日この頃であるのだった。 ところで、ブラジルで食べたフルーツは 素晴らしいものだった。 これがフルーツというものなのかと、 今まで食べていたものがフルーツと呼ばれていることがウソなのではないかと 思わされるほど、甘く それでいて 酸っぱい すっきり濃厚なものだった。 また、少しでも家計の足しにと、 子供が売り子になって売り歩く ピコレと呼ばれる アイスキャンディーの美味しいことったら。 何種類かあるのだが、 これらはみな、 これらのフルーツから作るものだった。 もちろん、これらのフルーツの製造過程が どんなものなのかは うかがい知れないが、 身体が拒否反応を示さない程度には 安心できるものだった。 さて、不二家はどうか。 不二家の商品は買ったことはないのだが、 不二家の店では やむを得ず食事をしたことがあった。 今回の事件を知って 納得できる 味だった。 2007年 01月 10日
iPod携帯発売へ アップル、6月米皮切りに だそうだ。
「iPod付き携帯電話」ということは 「携帯電話」に「iPod」を添付するということらしい。 通信に焦点を移行させるというのだろう。 当然といえば当然で、だから、あまり興味を引かれる話ではない。 むしろ、「携帯電話」の操作性のほうが気になる。 使いにくい。「携帯電話」にはボードをタッチするような軽快感がない。 そもそも、デジタルとは指先のことである。 指先を軽くタッチするだけで 多くのことが処理できてしまう、 その軽快さという操作性が 従来の重厚長大産業時代における家電 とは異なるのであろう。 しかし、現在の「携帯電話」における操作は 凡そ、タッチとは程遠く、 ブチブチ、プッシュしている。 押しつぶしている。 抑圧的だ。 それには、限られた容積で 多くの処理をこなせないという 演算能力(チップ“セル”)上の 技術的限界があったのだろう。 その上で、今、面白いのは むしろ、なにかと苦戦を噂される ソニーのPS3のほうが ずっと大きな可能性を持っているのではないか、 そういってみたい。 その演算能力は258ギガフロップス(テラフロップスは1秒に1兆回の演算能力)という。 それはスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を構成する64ギガマシン4台分である。 それを小さな一枚のチップにしてしまったというのだから、 しかも量産可能ときたら驚きであろう。 しかも、1.8テラフロップスの画像処理専用コンピュータ(GPU)を合わせ持ち、 総合計算能力は2テラフロップス達するという。 ここに既存の家電が吸収されていくことになる可能性の方が ずっと大きいのではないか。 操作性もずっと軽くなる。 処理能力とは速度である。 速度の向上が軽快感という操作性を ユーザーにもたらす。 プッシュの鈍重ではなく、 タッチする軽快な速度に十分対応可能となる。 それが通信(伝達)速度の向上のことである。 処理能力とは次から次へと 処理され、継がれていく、伝達速度のことである。 今のiPod程度の処理能力での通信は、 鈍重で退屈だ。 PS3 こっちのほうが面白そう! とはいえ、 ボタンない「iPod携帯」発表 - 米国とあるから 一歩、その方向に近づいたことにはなる。 /////////////////////////////////////////////////////////// それにしても この共同通信の記事はダメだ! AFPにある点がまったく触れられていないというのは やはり、共同通信社は「通信」ではない。 堕ちこぼれるだけだな! 「通信」を知らない共同「通信」の未来は、暗い。 共同通信社の記事だけを見て 書きはじめて 慌ててしまった よ! まったく、もう! こうやって 「通信」ならぬ「PRESS」され、 折角出てきた芽が 日本ではPRESS(抑圧)されていくんだ! 因みに、PS3のセル開発には 東芝ほか米IBMが参加したという。 このままだとIBMに成果の果実は 持って行かれる。 芽は日本ではPRESS(抑圧)せれる。 時事通信・AFPは事件性を確実に捉えている。 それにつけ共同通信は逃している。 だから、冒頭「当然といえば当然で、だから、あまり興味を引かれる話ではない」 と書いたのだった。 これでは勝負にならない。 こんないいかげんな記事を「通信」するようでは、 しかも、己に関することに、 ここまで無知でいられることのズボラさは ほとんど、犯罪的だ! こんな記事を信じて戦争したって勝ってこない。 既に情報戦で負けてるもん! /////////////////////////////////////////////////////// 毎日新聞では 「iPhone」はボタンのない斬新なデザインで、3.5型の画面に触れて操作するタッチパネル方式と、記事中にある。 しかし、見出しは『<アップルコンピュータ>iPod付き携帯電話発売へ 』である。 つまり、ものとどのように接触するかという、 人とモノの関係が変化したということが ユーザーにとって重要なのだ。 ブツが携帯かiPodかなんていうことは、 既存の行為の範疇にあり さしたる変化はない。 変化したのは インターフェイス上の 接触のあり方であり、 それがプッシュからタッチに変化した点が 今回は重要なのだ。 それが重要なのは 既に上記にあるとおりである。 ///////////////////////////////////////////////// そう書いて毎日を見てみたら 「米アップル:「iPodケータイ」発売へ 米で6月、タッチパネル式」になっている。 どうやら、このサイトの編集者が 「タッチパネル式」を省いてしまったようだ。 ただ、「3.5型の画面に触れて操作するタッチパネル方式」を 「斬新なデザイン」といっている点が家電的発想である。 デザインという言葉が 日常的に人に口にされるようになったのは 産業資本主義が台頭してきた近代になってからなのである。 だから「デザイン」は「計画」なのであり、 計画は未来に幻想を投影してしまう。 それはここで触れたので もう繰り返さない。 # by toroom | 2007-01-10 18:33
2007年 01月 10日
昨日の夜、NHKを観ていたら周防正行監督が出演していたので
ビールを飲みながら 久しぶりに、声を出して それとなく観ていた。 周防監督の初監督映画はピンク映画だった。 ハリウッドの撮影所システムが崩壊し、 いわゆるロードムービーとなっていくように、 日本にあっても厳しい事情は同じだった。 このような状況下で 映画を撮る。 それには ピンク映画しかないような時代に 周防監督は監督としてのキャリアを積んでいくことになった。 今となっては 周防監督をはじめ、 蓮実重彦の周辺に集った連中は 「立教ヌーベルバーグ」と呼ばれたりしている。 その「立教ヌーベルバーグ」を敢て一言でいえば、 ピンク映画ファン・クラスだったといってみたらどうだろか。 仮にも大学の講義が 「ピンク映画ファン」クラスだというのだから これはただならぬ事態ではないか。 (プチっと蓮実してみました) とはいえ、それはそれほど突飛な事態であるとはいいがたい。 中学生のときの、数学クラスのことを思い出してしまう。 一般的に言って、学校のクラスでは「わからない」というのは 恥ずかしいことで、ほとんど非難の対象となろう。 「わからない」ことに怯えながら 萎縮した時間を過ごすのが学校であったとする。 そんな窮屈を強いられる時間にあって ヤツに触れたときの喜びったら、 到底この世の出来事とは思えなかった。 「わからない」といえばいうほど 褒められてしまう。 「わかりません」と威張っていえる。 あの胡散臭い暗ったい空間に 「わかりませ~~~~~ん」が舞い上がる、 「わかりません」 「わ かりません」 「わか りません」 「わかり ません」 「わかりま せん」 「わかりませ ん」 「 わ か り ま せ ん 」 の嵐が渦を巻いてクルクル、クルクル、 称揚される唯一の出来事、 それがヤツ「X」 「わかりませ~~~~~ん」に触れることではなかったか。 潤いを欠いた学校という時空間にあって この「わかりませ~~~~~ん」に触れることの悦び。 無味乾燥とした砂漠で、 ポッつり穿たれた水溜りにそっと指を触れ、 今にも指先から垂れんとする滴にキスするときの愉悦。 乾いた舌先に刺激が走り、 ジワっと、いかにも、呆気なく、 浸透していく潤いが「X」だった。 映画にあって絵画のような枠はない。 枠は溶け流れ出し、 その流れ自体が枠ならぬ枠「X」に変容して漂う。 いささか漂いすぎてしまったか。 ピンク映画だった。 モノクロ映画が主流だった時代に、 突然、濡れ場シーンになると カラーになる。 天然色と呼ばれていた時もあるようだ。 映画は流れる、 流れる映画は濡れ場であろう。 「わかりませ~~~~~ん」は濡れ場 だった・・・・・・・・・・・・・・・ 2007年 01月 09日
防衛庁が防衛省になったらこれだけ変わるこの国「軍事予算がどんどん膨張し続け、軍隊に勝手に使われ会計検査院の手が届かなくなることも懸念される。また制服組が防衛大臣になって、シビリアンコントロール(文民統制)もきかなくなる恐れもある。さらに隊員の数が足りないので韓国のように徴兵制が敷かれるかもしれない」とある。
これは事実だろう。国家は略奪・再分配によって持続を目論む官僚・軍隊機構である。 だから、他国からの侵略に対する防衛(護る・救済)が国家機関ではなく、 むしろ、国家が略奪・再分配を目論む機構であるならば、 他国からの侵略をも侵略・略奪することで持続をはかる機構であろう。 よって、国家が救済機構であるかのような神話は捨てるしかない。 国家には、国家として略奪・再分配によって持続を目論む自立性がある。 ここに制限を加えることが 民主主義であろう。 強風下、空挺団初の降下訓練 - 千葉 アメリカに担がれるものを 担ぐ自衛隊は、 アメリカの提灯持ちだろう。 2007年 01月 09日
ブログを書き始めるときもそうだが、
なにかを始めるにあたって それに先立つものが必ずある。 それをどのように受け止めたかが 畢竟、ここに書いている内容ということになる。 ただ、書いている最中というのは なんとなくこんな感じという いかにも頼りない感覚を頼みに 書き進めていることになる。 だから、書くことのスリリングさとは どうのように着地をするかにかかっている。 書きたいことがあって書くというより 書いたあとに読み返して こういうことを書きたかったのかと 合点が得られれば 気分は上々に! ということは 文章を書き進めている最中は 空中に飛んでいる感覚に近い。 とはいえ 人は空を自力で飛べないとすれば 堕ちないように 浮かんでいるといったほうがいいのか。 さて どうしようか。 2007年 01月 08日
老子の道徳経 第四十七章を引用してみたい。
そして今日2007年01月08日暗黒物質の分布、銀河そっくり 誕生と進化裏付け に触れる。 宇宙に満ちる正体不明の「暗黒物質(ダークマター)」は「宇宙の質量の4分の1近くを占めながら、光や電波を出さないために観測できない未知の物質。ダークマターによって、宇宙のちりやガスが集まって星や銀河が誕生したと考えられている」「ダークマターの重力によって、その背後にある銀河の形がゆがんで見える「重力レンズ効果」に着目」し「ダークマターが集まる空間には銀河も集中していることが確認された」ここにあるのは宇宙論における用語によるものだが、そこで語られていることは上記に引用したことと関係する。ここでは、この「暗黒物質(ダークマター)」に注目してみたい。 「暗黒物質(ダークマター)」とは「光や電波を出さないために観測できない未知の物質」と、物質を視覚的に捉えようとする。けど、視覚的には観測できない。観測できない「暗黒」「未知の物質」とは、よって「見ないでも、あらゆるものを確認し、行動しないでも、あらゆることを成しとげる」物質の置かれた「位相」のことであろう。ここでは「ゆらぎ」分布とある。 例えば、宇宙船は宇宙に向かって出航する。宇宙から地球を見る。地球が宇宙だった。かくして地球に留まる者は「戸口から出ないで、天下のことを知る」のであった。このとき、船員は問うことだろう。「ここはどこ?」。宇宙に向かったはずなのに、宇宙は地球に行ってしまった。このとき気付くのであった。この問いが「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれているものの正体である。けど、こんな経験は子供の日常ではなかったか?「ここはどこ!?あなたは誰!?」これが子供自身の社会的に置かれた「位相」である。 学習には二つあるという。教師あり学習と教師なしのそれである。教師あり学習には問いがあり答えもある。一方の教師なし学習には答えがない。答えがなければ問いもない。あるのは「問う」という行為だけだ。つまり、問いがあって答えがあるのでははしに、問うことそれ自体が答えであるというのが教師なし学習だという。これこそ「ここはどこ!?あなたは誰!?」と問う、子供自身の姿ではなかったか。 または、こんな経験だっていい。われわれは星を観る。けど、星を観ることは誰にも出来ない。星だけを凝視しようとすればするほど、背後の「黒」が前方に向かって拡がりだし、星は背後へと向かってどんどん後退してしまう。その逆もしかり。つまり、相対的な関係における位相の推移それ自体は視覚的に捕られることは出来ない。けども、星と背後の「黒」の関係が推移することで、それらのモノをそれと認識しつつ、ところで「お前は誰だ!」と、これらの位相の推移をもたらすものに向かって問いを発している。ここにも宇宙飛行士はいる。 この他愛のない経験を念頭に再度確認してみると、「ダークマターの重力によって、その背後にある銀河の形がゆがんで見える『重力レンズ効果』に着目」とは、この経験を語っていることに気付く。 けど、これが「暗黒物質(ダークマター)」とは恐れ入ります。あちこちに「暗黒物質(ダークマター)」だらけではないか。この文章はネット宇宙に向かって出航する。船員・文章はささやく、「ここはどこ!?あなたは誰!?」。「暗黒物質(ダークマター)」はかくして旅を続ける。誰かに読まれるかもしれないし、読まれないかもしれない。これが旅であり、「暗黒物質(ダークマター)」であろう。 ところで、あなたは、いま、この文章を読んでいる。「ここはどこ!?あなたは誰!?」は、どうやらあなたのことであったらしい。すると、あなたは正体不明の「暗黒物質(ダークマター)」ということになる。 さー、どうします!?
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