カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2006年 11月 08日
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
◆ 巧妙に論理をすり替えている厚顔政権 ◆ 「イジメがなくなるのか?」こういう論の立て方がそもそもおかしい。「イジメがなくなるのか?」と問うことでいじめがなくなることはないし、むしろ、こう問うことで、いじめがある現実を「いじめがない」という夢想によって隠蔽し糊塗してしまう。それによって、本人の自覚のないまま自堕落にいじめの現実を容認してしまうことに加担することしかできない。 いじめには、いじめの原因があるし、それぞれ、個別のケースが考えられ、よって、個別解が求められるはずだ。「イジメがなくなるのか?」と問うことで、それを一般化してしまうのではいじめの現実が助長されることはあっても、いじめに対処する処世術を身につけることはできないだろね。 そもそも、教育に愛国心といった人の感情の陶冶を期待することに無理がある。学校は勉強するところで、感情は勉強によって養われるものではないはずだ。それを勉強する場である学校で養えることができるとどうやら考えているらしい、だから、安倍首相は頭が悪い。しっかりと、勉強を学校でしてこなかたから、学校がどういう場所なのかを学ぶことができなかった。 世界史の履修の有無を巡って騒がしい。ただ、かねがね思っていたのはそもそも「歴史」に日本とか世界とかいうのはほとんど意味がないのではないか。日本「数学」」とか日本「物理」と誰もいわない。だから国語もおかしい。「言語」でいい。むしろ、「歴史」や「言語」を日本や国で語ることの歴史が問題なのであって、それはたかだか百年数十年しか経過していない「物語」でしかない。物語は簡単だ。「始まり」があって「終わり」がありました。だから、いつでも直線で「通史」で語ることができる。だが、それは「物語」ではあっても「歴史」ではないはず。「往来が複雑に編み込まれるところに固有の出来事が生まれ、それぞれの固有名詞の間に往来の痕跡を感じ取る」語りは、直線で「通史」で語ることはできない。異質な、だからこそ、固有名が必要とされる相互の「対話」が「歴史」であろう。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
by toroom
| 2006-11-08 00:16
| 政治
|
ファン申請 |
||