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2006年 11月 13日
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「re-presentation(再-現)」が前提としている変化のない同一の反復はない。それをあたかも可能なものであるかのように思わせてしまうのだから「代表議会制」民主主義は手の込んだ「制度」であることはすでに触れた。 テレビにあって、見る行為を奪ってしまうのは一つには声だった。もう一つには、テレビはわれわれの身体を壁にしてしまう。だから、映像が向こうから一方的にやってくることで見る行為を、行為として成立させる「あいだ」を奪ってしまい、われわれから見る行為を略奪しにかかる。 また、「選ぶ側」と「選ばれる側」の乖離をなくすことをファシストは望んでいることにも触れた。それは、「「代表されるもの」が「代表するもの」を持てぬまま、よって、なにものも「代表しないもの」が「すべてを代表するもの」へと反転してしまうのがファジズムだ」った。 さらにそれは、「代表議会制」民主主義によって作られることにも触れた。「re-presentation(再-現)」が前提としているのは変化のない同一の反復である。だが、そんなものはない。ないものをあるかのように思わせてしまうのだから「代表議会制」民主主義は手の込んだ「制度」である。つまり、「代表議会制」の「代表」が、英語で「re(再)-presentation(現前)」であり、それが「代表」=「代わりに表す」即ち「再現」であることは簡単に理解できる。だから「再現」に注意しなければならなかったことも既に触れた。「NHKの自然ドキュメント、BBC自然ドキュメント、どれもナレーションが声で画面を説明する」。つまり、画面を説明するとは、映像を声で「再現」することである。さらに、これに付け加えれば、野球中継などにおける「再現」映像の生中継への介入もそれだ。また、同じ画面、同じ内容をどの局も一日に何度も繰り返す。それは新聞にあっても事情は変わらない。更に、この「同じ」を担保する制度が「同じ」記事を漁る「記者クラブ」制度であり、「同じ」料金を担保する「再販」制度であることは、ハッキリしている。 また、「再現」=「反復」がファシストにとっての重要な戦略であることにも触れた。ヒトラーは『わが闘争』にある「大衆的なものの大部分は、きわめて女性的な性質と見解を有している。彼らの思想と行動は理性的な考察によるよりも、はるかに感情と情緒によって支配されるのが常である。従って女性の感受性は、厳然たる支配者を好み、なかなか理解しがたい理論よりも、簡単にして力強い教義に満足する。一人としてその意味がわからない者がなくなるまで、繰り返し繰り返し宣伝はしなければいけない」がそれだ。「繰り返し繰り返し宣伝はしなければいけない」とは「再現」のことである。こうして知らぬ間に承認を迫ってくる。だから、為政者は議会における議論など望んではいない。拍手喝采がファシストの理想だ。『承認される側」と「承認する側」の乖離をなくす。拍手喝采こそ無言の承認の「再現」であり、ここにはいかなる反論の余地はない。委員会を作り議会を骨抜きにしている、小泉・安倍両氏のやり口はこれだ。 こしてみてくると、ここで為政者がどのように為政者として作られているかがハッキリとしてくるはずだ。つまり、「再現」である。これに対抗するにはどうすればいいか。一回性という歴史がここにはないのだ。人生は一回だ!一回だから、そこには固有性ががあり、固有名詞がある。固有名詞のない歴史はない。だから、為政者は歴史を恐れている。「代表」「再現」「反復」「マンネリ」「退屈」が彼らの住居だ。ここには物語の御伽噺しかない。昔、昔あるところに、「再チャレンジ」なんていってるオジサンがいました、だとさ!安倍首相が彼の親族の「再現」でしかないのだから、それもそうか! とはいえ、歴史の一回性についても既に触れている。 さらに、ここでは、こうして「反復」を自らやっていることに気付く。ただ一言しておくと、ここにあるのは「反復しえぬものの反復」といった「差異の増殖」であり、それは「再現」とは区別される。この区別こそが差異であり、分けても「再び」もう一度の「再現」とは違う。それも既に触れている。ここがスタート台だ!これまでは復習(反復)でした。 人は死を選ぶことはできても、生はできない。生は強いられたものである。それは選択を超えたものなのか、あるいは、それ以前なのかはともかく、生は強いられたものである。一方、「再現」には死んだ者の復活=再来=再現があり、いわば、死を媒介させていることに気付く。死んだ者が生き返る。再現させれる。そんな寝ぼけた戯言を飽きずに繰り返すのが為政者だ。だから、為政者は人に死を強いる。死刑はそれだ。人を殺して死刑なら、死刑を命じて殺した者がどうして生きられるのか。それでも生きている。なら、死刑を「死刑」せよ!死は選択できても生はできない。生は強いられたものである。これが命(生)令である。生は増殖である、過剰である、それは自らの生を生へと乗数倍に加速させていくことだ。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
by toroom
| 2006-11-13 00:42
| 政治
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