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2007年 01月 06日
The execution of Saddamは日刊リベタによると「処刑そのものがクー・クラックス・クランの私刑パーティーであった」という。
「サダム・フセインの後に思い出されるのは、イラク各地の戦場や拷問部屋に死屍累々と横たわる人々の、無惨な流血の犠牲ばかりだ」というフィナンシャル・タイムズの記事をこの時ブログにのせた。だが、「サダム・フセインの後に思い出されるのは」「無惨な」フィナンシャル・タイムズの文字の羅列であろう。 とはいえ、この日刊リベタの記事にあるような「映像が流失した」というのはどうだろうか。この記事はそれを隠そうとしていたという前提のもとにある。だが、事実はそれは前提になりえないということであろう。むしろ、事態は映像をネットに流し、「流失」を演出することが前提されていた。その上で、このような行為を行うものたちに非難を向けさせるというのが推移している事態であろう。それを行っているのは、当の非難の矛先にあるもの自身であろう。それがビデオ撮ったものによる、そのもの自身による「流失」ということの次第であろう。 また、記憶に新しいムハンマド中傷漫画を受け「イスラム教世界対欧州のキリスト教世界の対立の様相も呈した風刺画事件は、異なる価値観を持つイスラム系移民とどのように向き合うかを欧州社会に問うことにもなった」とある。だが事実は違う。相互が対立という「同じ」土俵の上にあるからこそ、「対立」ができるのではないか。だから、「異なる価値観」ではなく、同じ価値観だからこそ「同じ」土俵の上で「対立」という馴れ合いが可能なのだ。 そもその、「偶像崇拝を厳しく禁じムハンマドの肖像自体が許されないイスラム諸国」というのであれば、「ムハンマドの肖像」などこの世に存在しないではないか。だとすれば、そこにあるのはその「肖像」を描いた「キリスト教世界」の人がいるということだけであり、それをみて「風刺」はもとより「ムハンマドの肖像」という認識さえもとより至らないはずである。 「毎日がお祭り」で次のように書いた。 自分は今年36歳になる。10年前に10年後の今をどう考えていたか、思い出さない。恐らくなにも考えていなかったのだろう。だから思い出しようがない。ならば、10年後の今をどう考えるか。殆ど、なにも考えない。それは今考えているという条件を超えられないからだろう。その条件を超えられると人に思わせる装置が「宗教」だと思う。宗教というかたちをとっていなくても、今という条件を超越してしまう、それを「宗教」と呼ぶ。 つまり、偶像崇拝とは「今考えているという条件を超えてしまう」ことである。この「今という条件」の「超越」ということで「イスラム教世界対欧州のキリスト教世界」は対立しているのではなく「結託」が起きている、それがここでの事態なのではないか。 また、「表現の自由」とあるが、ここにある「表現の自由」とは「今という条件」を超越することであろう。むしろ「今という条件を超越すること」を拒むことの「自由」、「表現する」ことを拒むこと、その「自由」の余地が抜けている。だから「対立」という「結託」から自由になる余地がここからは生まれてこない。よって、この手の記事は事態を助長することのほうに加担することしかしていない。 「表現(ex-pression)」は「ex(外)」化、つまりは、内面の外化であり、こて手の記事に触れると、それはすぐれて「信仰告白」ということに関連した概念であるかがよく理解できる。「いま」あるいは「ここ」という条件を超越する装置こそが「内面」であり、その内面が「信仰告白」という「偶像崇拝」にいたる。だから「いま」あるいは「ここ」という物理的条件の超越とは、「偶像」の「像」イメージによってこの条件を超越するであろう。
by toroom
| 2007-01-06 22:50
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