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2007年 01月 10日
iPod携帯発売へ アップル、6月米皮切りに だそうだ。
「iPod付き携帯電話」ということは 「携帯電話」に「iPod」を添付するということらしい。 通信に焦点を移行させるというのだろう。 当然といえば当然で、だから、あまり興味を引かれる話ではない。 むしろ、「携帯電話」の操作性のほうが気になる。 使いにくい。「携帯電話」にはボードをタッチするような軽快感がない。 そもそも、デジタルとは指先のことである。 指先を軽くタッチするだけで 多くのことが処理できてしまう、 その軽快さという操作性が 従来の重厚長大産業時代における家電 とは異なるのであろう。 しかし、現在の「携帯電話」における操作は 凡そ、タッチとは程遠く、 ブチブチ、プッシュしている。 押しつぶしている。 抑圧的だ。 それには、限られた容積で 多くの処理をこなせないという 演算能力(チップ“セル”)上の 技術的限界があったのだろう。 その上で、今、面白いのは むしろ、なにかと苦戦を噂される ソニーのPS3のほうが ずっと大きな可能性を持っているのではないか、 そういってみたい。 その演算能力は258ギガフロップス(テラフロップスは1秒に1兆回の演算能力)という。 それはスーパーコンピュータ「地球シミュレータ」を構成する64ギガマシン4台分である。 それを小さな一枚のチップにしてしまったというのだから、 しかも量産可能ときたら驚きであろう。 しかも、1.8テラフロップスの画像処理専用コンピュータ(GPU)を合わせ持ち、 総合計算能力は2テラフロップス達するという。 ここに既存の家電が吸収されていくことになる可能性の方が ずっと大きいのではないか。 操作性もずっと軽くなる。 処理能力とは速度である。 速度の向上が軽快感という操作性を ユーザーにもたらす。 プッシュの鈍重ではなく、 タッチする軽快な速度に十分対応可能となる。 それが通信(伝達)速度の向上のことである。 処理能力とは次から次へと 処理され、継がれていく、伝達速度のことである。 今のiPod程度の処理能力での通信は、 鈍重で退屈だ。 PS3 こっちのほうが面白そう! とはいえ、 ボタンない「iPod携帯」発表 - 米国とあるから 一歩、その方向に近づいたことにはなる。 /////////////////////////////////////////////////////////// それにしても この共同通信の記事はダメだ! AFPにある点がまったく触れられていないというのは やはり、共同通信社は「通信」ではない。 堕ちこぼれるだけだな! 「通信」を知らない共同「通信」の未来は、暗い。 共同通信社の記事だけを見て 書きはじめて 慌ててしまった よ! まったく、もう! こうやって 「通信」ならぬ「PRESS」され、 折角出てきた芽が 日本ではPRESS(抑圧)されていくんだ! 因みに、PS3のセル開発には 東芝ほか米IBMが参加したという。 このままだとIBMに成果の果実は 持って行かれる。 芽は日本ではPRESS(抑圧)せれる。 時事通信・AFPは事件性を確実に捉えている。 それにつけ共同通信は逃している。 だから、冒頭「当然といえば当然で、だから、あまり興味を引かれる話ではない」 と書いたのだった。 これでは勝負にならない。 こんないいかげんな記事を「通信」するようでは、 しかも、己に関することに、 ここまで無知でいられることのズボラさは ほとんど、犯罪的だ! こんな記事を信じて戦争したって勝ってこない。 既に情報戦で負けてるもん! /////////////////////////////////////////////////////// 毎日新聞では 「iPhone」はボタンのない斬新なデザインで、3.5型の画面に触れて操作するタッチパネル方式と、記事中にある。 しかし、見出しは『<アップルコンピュータ>iPod付き携帯電話発売へ 』である。 つまり、ものとどのように接触するかという、 人とモノの関係が変化したということが ユーザーにとって重要なのだ。 ブツが携帯かiPodかなんていうことは、 既存の行為の範疇にあり さしたる変化はない。 変化したのは インターフェイス上の 接触のあり方であり、 それがプッシュからタッチに変化した点が 今回は重要なのだ。 それが重要なのは 既に上記にあるとおりである。 ///////////////////////////////////////////////// そう書いて毎日を見てみたら 「米アップル:「iPodケータイ」発売へ 米で6月、タッチパネル式」になっている。 どうやら、このサイトの編集者が 「タッチパネル式」を省いてしまったようだ。 ただ、「3.5型の画面に触れて操作するタッチパネル方式」を 「斬新なデザイン」といっている点が家電的発想である。 デザインという言葉が 日常的に人に口にされるようになったのは 産業資本主義が台頭してきた近代になってからなのである。 だから「デザイン」は「計画」なのであり、 計画は未来に幻想を投影してしまう。 それはここで触れたので もう繰り返さない。 #
by toroom
| 2007-01-10 18:33
2007年 01月 10日
昨日の夜、NHKを観ていたら周防正行監督が出演していたので
ビールを飲みながら 久しぶりに、声を出して それとなく観ていた。 周防監督の初監督映画はピンク映画だった。 ハリウッドの撮影所システムが崩壊し、 いわゆるロードムービーとなっていくように、 日本にあっても厳しい事情は同じだった。 このような状況下で 映画を撮る。 それには ピンク映画しかないような時代に 周防監督は監督としてのキャリアを積んでいくことになった。 今となっては 周防監督をはじめ、 蓮実重彦の周辺に集った連中は 「立教ヌーベルバーグ」と呼ばれたりしている。 その「立教ヌーベルバーグ」を敢て一言でいえば、 ピンク映画ファン・クラスだったといってみたらどうだろか。 仮にも大学の講義が 「ピンク映画ファン」クラスだというのだから これはただならぬ事態ではないか。 (プチっと蓮実してみました) とはいえ、それはそれほど突飛な事態であるとはいいがたい。 中学生のときの、数学クラスのことを思い出してしまう。 一般的に言って、学校のクラスでは「わからない」というのは 恥ずかしいことで、ほとんど非難の対象となろう。 「わからない」ことに怯えながら 萎縮した時間を過ごすのが学校であったとする。 そんな窮屈を強いられる時間にあって ヤツに触れたときの喜びったら、 到底この世の出来事とは思えなかった。 「わからない」といえばいうほど 褒められてしまう。 「わかりません」と威張っていえる。 あの胡散臭い暗ったい空間に 「わかりませ~~~~~ん」が舞い上がる、 「わかりません」 「わ かりません」 「わか りません」 「わかり ません」 「わかりま せん」 「わかりませ ん」 「 わ か り ま せ ん 」 の嵐が渦を巻いてクルクル、クルクル、 称揚される唯一の出来事、 それがヤツ「X」 「わかりませ~~~~~ん」に触れることではなかったか。 潤いを欠いた学校という時空間にあって この「わかりませ~~~~~ん」に触れることの悦び。 無味乾燥とした砂漠で、 ポッつり穿たれた水溜りにそっと指を触れ、 今にも指先から垂れんとする滴にキスするときの愉悦。 乾いた舌先に刺激が走り、 ジワっと、いかにも、呆気なく、 浸透していく潤いが「X」だった。 映画にあって絵画のような枠はない。 枠は溶け流れ出し、 その流れ自体が枠ならぬ枠「X」に変容して漂う。 いささか漂いすぎてしまったか。 ピンク映画だった。 モノクロ映画が主流だった時代に、 突然、濡れ場シーンになると カラーになる。 天然色と呼ばれていた時もあるようだ。 映画は流れる、 流れる映画は濡れ場であろう。 「わかりませ~~~~~ん」は濡れ場 だった・・・・・・・・・・・・・・・ #
by toroom
| 2007-01-10 16:58
| 政治
2007年 01月 09日
防衛庁が防衛省になったらこれだけ変わるこの国「軍事予算がどんどん膨張し続け、軍隊に勝手に使われ会計検査院の手が届かなくなることも懸念される。また制服組が防衛大臣になって、シビリアンコントロール(文民統制)もきかなくなる恐れもある。さらに隊員の数が足りないので韓国のように徴兵制が敷かれるかもしれない」とある。
これは事実だろう。国家は略奪・再分配によって持続を目論む官僚・軍隊機構である。 だから、他国からの侵略に対する防衛(護る・救済)が国家機関ではなく、 むしろ、国家が略奪・再分配を目論む機構であるならば、 他国からの侵略をも侵略・略奪することで持続をはかる機構であろう。 よって、国家が救済機構であるかのような神話は捨てるしかない。 国家には、国家として略奪・再分配によって持続を目論む自立性がある。 ここに制限を加えることが 民主主義であろう。 強風下、空挺団初の降下訓練 - 千葉 アメリカに担がれるものを 担ぐ自衛隊は、 アメリカの提灯持ちだろう。 #
by toroom
| 2007-01-09 16:59
| 政治
2007年 01月 09日
ブログを書き始めるときもそうだが、
なにかを始めるにあたって それに先立つものが必ずある。 それをどのように受け止めたかが 畢竟、ここに書いている内容ということになる。 ただ、書いている最中というのは なんとなくこんな感じという いかにも頼りない感覚を頼みに 書き進めていることになる。 だから、書くことのスリリングさとは どうのように着地をするかにかかっている。 書きたいことがあって書くというより 書いたあとに読み返して こういうことを書きたかったのかと 合点が得られれば 気分は上々に! ということは 文章を書き進めている最中は 空中に飛んでいる感覚に近い。 とはいえ 人は空を自力で飛べないとすれば 堕ちないように 浮かんでいるといったほうがいいのか。 さて どうしようか。 #
by toroom
| 2007-01-09 01:08
| 自然・環境
2007年 01月 08日
老子の道徳経 第四十七章を引用してみたい。
そして今日2007年01月08日暗黒物質の分布、銀河そっくり 誕生と進化裏付け に触れる。 宇宙に満ちる正体不明の「暗黒物質(ダークマター)」は「宇宙の質量の4分の1近くを占めながら、光や電波を出さないために観測できない未知の物質。ダークマターによって、宇宙のちりやガスが集まって星や銀河が誕生したと考えられている」「ダークマターの重力によって、その背後にある銀河の形がゆがんで見える「重力レンズ効果」に着目」し「ダークマターが集まる空間には銀河も集中していることが確認された」ここにあるのは宇宙論における用語によるものだが、そこで語られていることは上記に引用したことと関係する。ここでは、この「暗黒物質(ダークマター)」に注目してみたい。 「暗黒物質(ダークマター)」とは「光や電波を出さないために観測できない未知の物質」と、物質を視覚的に捉えようとする。けど、視覚的には観測できない。観測できない「暗黒」「未知の物質」とは、よって「見ないでも、あらゆるものを確認し、行動しないでも、あらゆることを成しとげる」物質の置かれた「位相」のことであろう。ここでは「ゆらぎ」分布とある。 例えば、宇宙船は宇宙に向かって出航する。宇宙から地球を見る。地球が宇宙だった。かくして地球に留まる者は「戸口から出ないで、天下のことを知る」のであった。このとき、船員は問うことだろう。「ここはどこ?」。宇宙に向かったはずなのに、宇宙は地球に行ってしまった。このとき気付くのであった。この問いが「暗黒物質(ダークマター)」と呼ばれているものの正体である。けど、こんな経験は子供の日常ではなかったか?「ここはどこ!?あなたは誰!?」これが子供自身の社会的に置かれた「位相」である。 学習には二つあるという。教師あり学習と教師なしのそれである。教師あり学習には問いがあり答えもある。一方の教師なし学習には答えがない。答えがなければ問いもない。あるのは「問う」という行為だけだ。つまり、問いがあって答えがあるのでははしに、問うことそれ自体が答えであるというのが教師なし学習だという。これこそ「ここはどこ!?あなたは誰!?」と問う、子供自身の姿ではなかったか。 または、こんな経験だっていい。われわれは星を観る。けど、星を観ることは誰にも出来ない。星だけを凝視しようとすればするほど、背後の「黒」が前方に向かって拡がりだし、星は背後へと向かってどんどん後退してしまう。その逆もしかり。つまり、相対的な関係における位相の推移それ自体は視覚的に捕られることは出来ない。けども、星と背後の「黒」の関係が推移することで、それらのモノをそれと認識しつつ、ところで「お前は誰だ!」と、これらの位相の推移をもたらすものに向かって問いを発している。ここにも宇宙飛行士はいる。 この他愛のない経験を念頭に再度確認してみると、「ダークマターの重力によって、その背後にある銀河の形がゆがんで見える『重力レンズ効果』に着目」とは、この経験を語っていることに気付く。 けど、これが「暗黒物質(ダークマター)」とは恐れ入ります。あちこちに「暗黒物質(ダークマター)」だらけではないか。この文章はネット宇宙に向かって出航する。船員・文章はささやく、「ここはどこ!?あなたは誰!?」。「暗黒物質(ダークマター)」はかくして旅を続ける。誰かに読まれるかもしれないし、読まれないかもしれない。これが旅であり、「暗黒物質(ダークマター)」であろう。 ところで、あなたは、いま、この文章を読んでいる。「ここはどこ!?あなたは誰!?」は、どうやらあなたのことであったらしい。すると、あなたは正体不明の「暗黒物質(ダークマター)」ということになる。 さー、どうします!? #
by toroom
| 2007-01-08 22:00
| 自然・環境
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