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2007年 01月 07日
仏大統領:「イラク戦争はテロ拡散を進めた」と米国を批判とあるが、フランスにおける「米国を批判」には英国批判が含まれよう。それを念頭につぎの「中国、インド、ブラジルなど新興経済諸国(の発展)が世界の多様性を進め、伝統国と新興国のきずなに影響を及ぼし、西欧諸国による国際秩序の支配が終わることを望む」を読むと、これらの地域は国民国家の膨張としての「帝国主義」によって支配されていた地域であることが理解される。「西欧諸国による国際秩序の支配」とはこのことであろう。それが「終る」というのである。終りが始まりであるとすれば「始まった」ことはなにか。「中国、インド、ブラジル」が始まったということであろう。これを始まらせることで、では西洋諸国が始めることはなにか。それは国民国家の膨張としての「帝国主義」ではなく、それ以前の「帝国」、つまりは、ルネサンス以降の中世世界が想定されているのであろう。
そこでは西洋は中心ではなく、よって、周辺でもない。そうではなく、それら文明の「亜周辺」である。文明は「中国、インド」であり、「ブラジル」といっているがフランスにとっては「イラン」である。だから、ここにあっての「伝統国と新興国」は西洋が「新興国」であり「伝統国」が「中国、インド、イラン」である。既に「大雑把な地図を描いてみたかった」(1)が進捗しているということだろうか。 帝国にあっては文字や度量衡以外の干渉は行われない。それ以外は地域の独自性が担保される。それは個人主義の徹底の方向に進むことであり、携帯電話(セルラー)の普及がそれだ。セル(細胞)である。 だから、大型公共事業はなくなる。なぜならば、それは工業化にともなう労働集約型の産業資本が都市に労働者を結集させる必要からうまれたものだからだ。それが超高層ビルの林立である。過度の集中による個人スペースの不足が、少ない土地に人を集約できる「超高層ビル」を生んだのだった。 この過度の集中が「西欧諸国による国際秩序の支配」だったのだ。われわれは携帯電話(セルラー)の普及された時代を生きている。「中心/周辺」の中心から「亜周辺」へとシフトしているのである。大陸から島へ時代はシフトしているのである。 だから、六本木ヒルズの「超高層ビル」に群がるヤツラが時代の先端なんて冗談にもほどがある。所詮、その程度のヤツラしかいないのが日本の現実である。 皆さん、その土地の新鮮な美味しいものを食べて、ゆっくり、充実した、人生を送りませんか。それが、進捗している時代の本流からの囁きであるように思われる。 (1) ここの地図をみて欲しい。これを見て、それとすぐに分かる人はまだそう多くないと思う。青が加盟国、緑はオブザーバー国を示している「上海協力機構」である。中国・ロシア・カザフスタン・キルギスタン・タジキスタン・ウズベキスタンの加盟6か国に、モンゴル、インド、パキスタン、アフガニスタン、イランがオブザーバーとなって構成されている そうと分かった上で、今度はこれを見て気がつかない人はいだろう。ここでは、古代文明として栄えた地域が結集している。ティグリス・ユーフラテス川(イラン)・インダス川(インド)・黄河(中国)で、それぞれ古代文明が栄えた地域である。ここにエジプト(ナイル川)が加わり、更に、地中海を挟んで取り囲まれる地域が繋がっていけば、これは明らかに近代西洋による「国民国家」の膨張としての帝国ではなく、それ以前の「帝国」の図版とも重なってくる。つまり、これは「脱近代国家」「脱西洋中心主義」の大きなうねりであり、しかも、それが「反欧米」ではなく「非欧米」であるのだとすれば、それは欧米的価値観を踏襲し、それを徹底することで「非欧米」を実現していく革命的な動きであろう。そして、それが「上海」であることがかさねて重要であろう。なぜなら、この都市ぐらい先の「反欧米」ではなく「非欧米」に似つかわしい都市もまたとないように思われるからである。内には西洋列強による植民地支配当時の建造物を、その歴史のうちに抱えつつ、同時に海洋の道の要衝でもある。いい換えれば、英米によるユーラシア大陸包囲網を内で包囲し、且つ、包囲されることで抑制せれていてものを海に向かって分散することでもある。 だから、視点の移動が必要なのだ。英米からこの動きをみるのではなく、逆に、この動きから英米をみなければならない。ようやく、そういう時代が来たのだ。世界は分散され、無数の島となる。そこでは陸からの発想ではなく、海から島となった陸を発想する時代が来たのである。それは、同時にネット・ワークの時代でもある。PC(ハード)は、一度ネットに接続されればネットを生成するソフトへと移行しまう。そこでは「内部」が「外部」でり、「外部」が「内部」へと、境界を持つことなく、あるいは、境界それ自体を生成しているのが「ネット」である。これは、固体ではなく、気体と流体のあいだを動くコンニャクのようなものである。 普段見慣れた日本地図を逆さまにしただけなのに、まったく違ったものをみているような気にさせられる。これを眺めていると、日本は単に島国なのではなく、日本海、東シナ海を挟んで大陸と呼応している様子がわかってくる。 ここに書いたのは、ごく大雑把なものに過ぎない。とはいえ、不案内な土地であれば、詳細な地図よりもむしろ大雑把な地図の方が重宝する。そんな大雑把な地図を描いてみたかった。 #
by toroom
| 2007-01-07 00:47
| 政治
2007年 01月 06日
The execution of Saddamは日刊リベタによると「処刑そのものがクー・クラックス・クランの私刑パーティーであった」という。
「サダム・フセインの後に思い出されるのは、イラク各地の戦場や拷問部屋に死屍累々と横たわる人々の、無惨な流血の犠牲ばかりだ」というフィナンシャル・タイムズの記事をこの時ブログにのせた。だが、「サダム・フセインの後に思い出されるのは」「無惨な」フィナンシャル・タイムズの文字の羅列であろう。 とはいえ、この日刊リベタの記事にあるような「映像が流失した」というのはどうだろうか。この記事はそれを隠そうとしていたという前提のもとにある。だが、事実はそれは前提になりえないということであろう。むしろ、事態は映像をネットに流し、「流失」を演出することが前提されていた。その上で、このような行為を行うものたちに非難を向けさせるというのが推移している事態であろう。それを行っているのは、当の非難の矛先にあるもの自身であろう。それがビデオ撮ったものによる、そのもの自身による「流失」ということの次第であろう。 また、記憶に新しいムハンマド中傷漫画を受け「イスラム教世界対欧州のキリスト教世界の対立の様相も呈した風刺画事件は、異なる価値観を持つイスラム系移民とどのように向き合うかを欧州社会に問うことにもなった」とある。だが事実は違う。相互が対立という「同じ」土俵の上にあるからこそ、「対立」ができるのではないか。だから、「異なる価値観」ではなく、同じ価値観だからこそ「同じ」土俵の上で「対立」という馴れ合いが可能なのだ。 そもその、「偶像崇拝を厳しく禁じムハンマドの肖像自体が許されないイスラム諸国」というのであれば、「ムハンマドの肖像」などこの世に存在しないではないか。だとすれば、そこにあるのはその「肖像」を描いた「キリスト教世界」の人がいるということだけであり、それをみて「風刺」はもとより「ムハンマドの肖像」という認識さえもとより至らないはずである。 「毎日がお祭り」で次のように書いた。 自分は今年36歳になる。10年前に10年後の今をどう考えていたか、思い出さない。恐らくなにも考えていなかったのだろう。だから思い出しようがない。ならば、10年後の今をどう考えるか。殆ど、なにも考えない。それは今考えているという条件を超えられないからだろう。その条件を超えられると人に思わせる装置が「宗教」だと思う。宗教というかたちをとっていなくても、今という条件を超越してしまう、それを「宗教」と呼ぶ。 つまり、偶像崇拝とは「今考えているという条件を超えてしまう」ことである。この「今という条件」の「超越」ということで「イスラム教世界対欧州のキリスト教世界」は対立しているのではなく「結託」が起きている、それがここでの事態なのではないか。 また、「表現の自由」とあるが、ここにある「表現の自由」とは「今という条件」を超越することであろう。むしろ「今という条件を超越すること」を拒むことの「自由」、「表現する」ことを拒むこと、その「自由」の余地が抜けている。だから「対立」という「結託」から自由になる余地がここからは生まれてこない。よって、この手の記事は事態を助長することのほうに加担することしかしていない。 「表現(ex-pression)」は「ex(外)」化、つまりは、内面の外化であり、こて手の記事に触れると、それはすぐれて「信仰告白」ということに関連した概念であるかがよく理解できる。「いま」あるいは「ここ」という条件を超越する装置こそが「内面」であり、その内面が「信仰告白」という「偶像崇拝」にいたる。だから「いま」あるいは「ここ」という物理的条件の超越とは、「偶像」の「像」イメージによってこの条件を超越するであろう。 #
by toroom
| 2007-01-06 22:50
2007年 01月 06日
星野仙一がオリンピックの野球監督になるらしい。自分はオリンピックは都市拡張の口実としか考えてないのでどうでもいい。ただ、野球には尽きない興味がある。星野が現役だったとき、どちらかといえば好きな選手ではあった。では、監督星野はといえば、ハッキリ嫌いであった。だからオリンピックにおける野球は一層どうでもいいことにる。今回で野球はオリンピックの競技対象ではなくなるという。野球にとってはまたとない幸福というものだろう。
ところで、松井秀樹が石川で1200人の子供を集めて講演をしてる様子を横目で見ていて思いだしたことがあった。テレビの企画だったとおもうが同じく子供に野球をレクチャーするというものだった。そこで松井が子供に向かってこう語っているのを聞いた。「自分で出来ることと出来ないことを区別することが、自分で出来ることだから、そのことを考え、そのことしか考えていない」。要旨はだいたいこんなことだったかと思う。そこから子供たちが質問を始める。「スタンドからの野次は気になりませんか」と子供。「これは自分では出来ないことなので気にならない。スタンドに向かって野次止めろとはいえないでしょ」と松井。 では、監督における「出来ること出来ないこと区別はどこにあるのか」。子供に紛れて質問したくなった。「僕は監督ではないので分かりません」といってヤンワリと松井はかわすのだろうか。「選手の僕には監督を選ぶことはできない」「監督に起用されるようにするだけです」。これが松井のいうところの「自分で出来ることの区別」というのもだろう。だから、これ以上を松井に質問することは「出来ない」ことである。 とはいっても選手は監督に起用されることであると語っている(自分の想定問答ではあるけども)。だから監督における区別とは選手起用におけるそれであろう。監督にあって出来ることと出来ないことの区別とは、選手を起用するかしないかの区別と、選手交代するかしないか、その区別だけが監督にできることである。その区別を超越するいかなる言動も慎みを欠いた下品な行為ということになろう。 監督星野には慎みがない。これが耐え難い。選手に「ついて(about)」語ることは監督にあるまじき越権行為である。監督は選手起用の区別という己の行為を語ることしかできないのではないか。ところが監督星野は選手に「ついて(about)」語る。選手月旦、または、レッテル張りをする。語るべきは、選手起用の判断はどこにあったのかであろう。その区別を語る監督・星野を自分は知らない。この選手起用の判断・区別は監督の行為であり、その行為は誰でもない監督の責任である。だから、この区別を語れない、語らせない質問は、監督の責任をすべて選手に転嫁することでしかない。これが横行しているのが日本野球の現状なのではないか。すぐれたプレヤーがアメリカでプレーしたがるのは、単に金銭だけの話ではないだろう。 そうするとどうだろうか。今、日本における野球的言動はなんて下品に満ちていることか。やれ「金メダルがどうのこうの」「日本を代表してどうのこうの」にはじまり、「優勝目指してガンバリます」・・・・・・。これが野球だろうか。ワールド・クラシック・ベースボールだったかしらん。まったく興味がなかったので名称さえあやふやだが、ここに松井はいなかった。これだけが自分には朗報だった。 野球監督・映画監督・企業経営者・首相組閣人事どれをとっても、起用における判断・区別を明確にする言説を聞いたことがあるか。この区別を付けられない野放図な夜郎自大が横行するとどうなるのか。先の戦争で勝てるはずのない戦争を一人つづけ避けられた原爆投下に至ったこと。自分にはアメリカでプレーするプレヤーを見るにつけ『亡命』に思えて仕方がない。ただ、アメリカが安全な地なのかどうかは分からないが・・・・・。 #
by toroom
| 2007-01-06 19:02
| 政治
2007年 01月 05日
今朝、仕事から帰宅して、うちの者がつけていたテレビを観ていると夕張市が映っていた。テレビはいつも音を消しているのでそこで語られていることは分からない。にもかかわらず、最近はご丁寧にやたらと文字が躍っているのでそれと分かる。本来なら、その絵を撮影しなければいけないのだろうが編集でいくらでもなんとかなる。テレビでは文字情報の撮影など、お構いなしでいられる。テレビ画面はズボラだ。それにも関わらず、そこに映っている人々の様子は生き生きしているように感じた。
依然、坂口安吾の『堕落論』だったか、それを読んでいたときの感じを思い出していた。空襲で焼け野原になった東京にあって安吾は生き生きとしている。システムがしっかりスクラムを組んでいるときには安吾のようなものは息絶え絶えだ。この手のものは、それらのシステムが崩壊すると生き返る。 夕張の人々にもそういうものがいるのだろう。水を得た魚たちがいっせいに泳ぎ始める。そこにはルールはない。自分たちがそのルールだ。「欧米人に日本人を教わらなくたって俺たちがその日本人だ」とブルーノ・タウトにむかってhowlする安吾族が夕張にもいるのではないか。 自分は今年36歳になる。10年前に10年後の今をどう考えていたか、思い出さない。恐らくなにも考えていなかったのだろう。だから思い出しようがない。ならば、10年後の今をどう考えるか。殆ど、なにも考えない。それは今考えているという条件を超えられないからだろう。その条件を超えられると人に思わせる装置が「宗教」だと思う。宗教というかたちをとっていなくても、今という条件を超越してしまう、それを「宗教」と呼ぶ。「計画」がそれだ。「計画経済」をうたった共産主義は崩壊した。共産主義は「計画」をそのまま未来に投影する。その投影した計画をルールや法といって、それで人を拘束し、それ以外のものを排除する。ここからは臨機応変の機敏さは衰退し、やる気も奪われる。ここに荒廃が蔓延する。その首謀者は行政だ。夕張ではその行政は崩壊した。夕張市民は自分たちを縛る「計画」から解放され、今、生き返る。夕張には映画祭がある。毎日がお祭りとなる。喜ばしきことなり。 政治は政(まつりごと)! (因みに、夕張映画祭は財政難を理由に潰されかけたが、存続が決まったようです。夕張映画祭から、ひょっとしたら面白いことが起きるかも!) #
by toroom
| 2007-01-05 10:50
| 政治
2007年 01月 04日
日米、有事計画を具体化 朝鮮半島問題想定
中台有事視野に対処計画 日米、2月検討着手 海上で滑走路1本化も 普天間移設で久間長官が検討方針 防衛施設庁、9月に前倒しで廃止へ 久間長官 なんか急いでるな。きな臭いヤツラは、アジアを戦火に仕立て上げようと躍起になってる感じだな。 [深化すべき日米同盟]「『北』の核の脅威を排除せよ」 そう息巻くのは「読売新聞」である。中国のときにも同じだった。「・・・・・の脅威を排除せよ」。こうして「いじめ」の「排除と選別」の構造はここでも繰り返される。学習能力に欠ける低脳な飽きない(商い)連中だ。読売の核改め「書く」の「脅威を排除せよ」からはじめたらどうなんだ。この新聞を買わなければいいだけの話だけども。 共謀罪:法案見送り 参院選への影響懸念 自公方針 選挙にはこの程度の効力はあるのですね。兎に角、こんな法案が通ったら先ずこのブログはやめることにはなる。日本語と呼ばれる言語では遣り取りしなくなる。結局、法律は日本語で書かれてるから、それ以外の言語では対応できない。だからそうするまでだが。とはいいつつも、こんな法案が通過した時には、日本語で対話をするもの同士の「共謀」(外国語から見ればそう見える)によってもたらされる事態はいずれ罰せられる。そういう事態が一気に進捗することだけは間違えがなさそう。 確かに、どの政党でも大差はない。しかし、ちょっとの差が重要であり、その差は政権を「交代」させること自体がそれであろう。投票行為における秘密投票(自由投票)は特定勢力からの強制に対しNO(制限を加える)のと同様に、進捗する事態に対し制限を加えることが政権「交代」なのではないか。 #
by toroom
| 2007-01-04 08:00
| 政治
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