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2007年 01月 04日
2007年 01月 04日
キューバ、フセイン元大統領の処刑を「違法」と非難
The execution of Saddam フセイン元大統領処刑に抗議デモ ビデオ流出を調査 サダム・フセイン処刑 罵声飛び交う処刑室の映像流出 サダム・フセインは政治的にきわめて狡猾(こうかつ)な人間だった。しかし優しさや温かみに欠け、はっきりした思想にもとづくビジョンもなく、アラブ世界の向こうに広がる世界を理解せずに終わった。その死後に記憶として残るのは、本人が追い求めた一人の男の栄光でも国家としての栄光でもない。サダム・フセインの後に思い出されるのは、イラク各地の戦場や拷問部屋に死屍累々と横たわる人々の、無惨な流血の犠牲ばかりだ。 そして、このような記事を書いているのは「フィナンシャル・タイムズ」である。 #
by toroom
| 2007-01-04 02:17
| 政治
2007年 01月 03日
今冬、流氷を初観測 オホーツク海で海自哨戒機
「流氷は北海道の紋別から北へ約200キロの海上をゆっくりと南下。南北方向に長さ約56キロ以上、幅は約70キロに広がっているという。札幌管区気象台によると、今年の流氷は例年より大きく、沿岸から肉眼で流氷を観測できる「流氷初日」は平年並みの1月下旬より数日早まると予想」とのこと。この情報を楽しみに待っていたので嬉しい。流氷が来ると陸が移動しているようで、なぜか子供の時からウキウキしていた。今も、それは変わらないらしい。プレートテクトニクス理論を高校の時に知って、何故かこの流氷を思い浮かべていたこともありありと思いだす。どうやら昔からの癖らしく、そのもの自体ではなく他のものに迂回して、そのものの理解に近づく。その迂回が長けれればその分だけ、それをもたらす対象は価値が高くなる。 三浦海岸に小学校の遠足で行った。むき出しになった断層を見て感動した。だからだろう、卒業文集にもそのときのことを書いていて、最近結婚した当時からの友人の結婚式のスピーチのネタ探しの際に読み直す機会があった。それが、なかなかよく書けてるんだな。ビックリするぐらいに、丁寧に観察されている。何十年も過ぎれば自分が書いたものでもそれは他者に接するぐらいの冷静さはある。 これを書いてから六年後、クロード・レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』の「どのよいうにして人は民俗学者になるか」を読んだときの感動は忘れられない。当時の自分に構造主義など理解できるわけもなく、それでも読み進めるだけでいいから読んでみる。分からないことが当たり前だと思って読んでいると、たまに理解できるところがあると凄く嬉しい。勿論、それは自分の勝手な理解で間違っているに違いないと思いつつではあるが。
「支配的な一つの意味を取り戻すことを、唯一の目的としている」その認識に揺さぶりをかける試みがその後展開されていることを、今は知っている。とはいえ当時から、この点は理解できなかった。むしろ、このような認識が不可能なことを知る手掛かりが、断層をはじめとする地層を見る経験だった。しかし、このような「変形された置き換え」からカントールの連続体仮説といったことを学んでいったことを思えば、多くを励まされていることは間違えない。 随分迂回してしっまたようだ。以前、流氷はアムール河の淡水が凍っていると考えられていたようだが、それだけではなく、複数の流れが重なりながら流氷となっているという。それを解明することが課題らしく、日・米・ロシア・カナダの研究者による共同研究が行われているとも聞く。ただ、最近は中国からの汚染物質がアムール河に流れだし、流氷にのって漂流しているとも考えられる。そろそろ中国の研究者も参加していい時期にきていると思う。そすれば、中国の汚染については報道しないという、日中のあいだにあるという規約にも風穴を開けることが期待できるとおもうのだが。 海 氷 速 報 #
by toroom
| 2007-01-03 04:17
| 自然・環境
2007年 01月 02日
マルセル・デュシャンに「泉」といわれるものがる。美術館に既成の便器を持ち込んでそうよんだ。美術館という場に便器が持ち込まれ展示されればそれは美術品として鑑賞の対象となる。しかし、美術館を知らない人がいて、そこで用を足したらどうなるか。
病室にオマルが運ばれ、それをじっと見つめて用を足そうとせず、お漏らしをしてしまった。これは美術品である。そういって頑なにそこで用を足すことを拒む人がいたらどうなるか。 美術館で便器をみて用を足したら叱られ、今度は病室で眺めてしまってお漏らしたら怒られる。一体どうなってるんだろう。 おそらく、こういう経験は誰もが一度はしたことがあるのではないか。同じものでも、配置される場が変わり、関係性が変化すればその様相が変わる。良質のギャグも、恋愛も、音楽も、どれもこういうことに関わるはず。それを「同じもの(原理主義)」に執着し、いつも一本調子のがりがり猛者は、思考も硬直していつも戦々恐々として余裕がなくなり、その余裕を奪ってしまうことを正しいことだと思い込む。 現首相にはこの傾向が強い。「共謀罪」はマッカーシーか、ジャンヌダルクか。いずれにしても、この手の人には景気回復はできない。新しい商品は様相の変化から生まれてくるのであれば、それを奪いにかかる人からは、衰退しかもたらされない。選手、改め、僭主交代! #
by toroom
| 2007-01-02 21:00
| 政治
2007年 01月 01日
寝起き、外に出て冷たい空気を全身で吸ってきた。
近くの比較的大きな公園では子供たちが遊んでいる。 いともと変わらない。 ちょうど10年前の今日、 ブラジルはサルバドールで過ごしていた。 南半球は夏である。 思えば 太陽の周囲を地球が公転している 軌道の任意の点を開始点としても よいはずだ。 北半球で発達した文明が 年の始まりを 冬の真ん中にしたのには 生理的なことがあってのことであろう。 春は植物たちがいっせいに芽吹く。 生命力が溢れ どううにもこうにも 楽しい。 夏は表層になる果実がおいしい。 滴る水 全身をなでる風が流れ 人の気分を遠くへと 誘なっていく。 秋は「麦秋」という言葉があるように 種子が散逸して飛び交い 流れながら 着地していく そんな静動の アンビバレントな愉快な物悲しさがある。 冬は 雪や寒風に 表層は覆われ 服を着込み 包まれ 静止した静寂さが横溢している。 その真ん中を 新年とする。 ここに 亀裂が走りだす。 ちょうど春に向かって いっせいに走り出す 滑走路のようなものだろう。 子供たちは春に向かって 助走するかのように遊んでいる。 夏の南半球では 着地点を求めて クールダウンを始めていく頃に差し掛かかる。 そんな春と秋のざわめきが 相反しつつ 心地よい 正月。 今晩の月も きっときれいなことだろう。 「正月」に太陽の熱を寒気に感じてみたい。 #
by toroom
| 2007-01-01 15:57
| 自然・環境
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