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2006年 11月 12日
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民放/コマーシャル/テレビは「繰り返し繰り返し宣伝」をするための道具となっている。見る行為を、その行為として成立させる「あいだ」を奪うのがテレビであれば、コマーシャル(宣伝)と番組の「あいだ」の区別も奪われ、テレビもろともコマーシャル(宣伝)となってしまった。けど、そんなことは驚くにあたらないことで、そういうものであることは無声映画を観ればそれとすぐに理解できることだろう。 ベルリン国際映画祭はヒトラーが、ベネチア国際映画祭はムッソリーニがはじめたものであることを考えれば、映画ほどファシズムと親密なものはない。映画には絵画における「枠」がない。枠は溶け出し、枠の「内」と「外」の区別も、枠と内容の区別もないまま一気に走りだしてしまう。ここにファシストは気がついていた。だから、彼らは映画を自らの宣伝に利用したのだ。それが、今日まで続いている国際映画祭という祭りである。祭りとは、自他の区別をなくしていく酩酊状態をつくりだすものだろう。映画ほど祭りに似つかわしいメディアはまたとない。映画は、映画を観るものから、いともたやすく警戒感を奪ってしまう。棺から死体がやおら起き上がり歩き出したり、宇宙から生物がやってきて会話をする。そんなことは実際にはありあえない。正気ではない。けど、そんな映画は掃いて捨てるほど量産されている。なぜか?『映画には絵画における「枠」がない。枠は溶け出し、枠の「内」と「外」の区別も、枠と内容の区別もないまま一気に走りだしてしまう』からだ。ここでは虚実の「区別」が奪われてしまうため、人が日常にあって当然身に付けている「区別する判断力」を奪ってしまう。 「選ぶ側」と「選ばれる側」のあいだの乖離をないものにしてしまうことを望んでいるのがファシストだ。あるいは、「代表されるもの」が「代表するもの」を持てぬまま、よって、なにものも「代表しないもの」が「すべてを代表するもの」へと反転してしまうのがファジズムだ。第三帝政期のナポレオン三世がナポレオンを甥に持つということ以外にこれといった取り柄のない人が、それゆえに、「すべてを代表するもの」へとなってしまったことは今一度思い出してみるのもいい。 「見る行為を、行為として成立させるための「あいだ」を奪ってしまうのは、テレビでは「声」だった。それに対し、映画では映画それ自体の存立のありかた、つまり、自らの存立に必要な「枠」の崩壊それ自体を、存立の基盤にしてしまうことが、目からその対象を奪い取り(対象は崩壊しているのだから)、よって、目と対象のあいだにある「あいだ」もなくなってしまう(対象のないところに「あいだ」はないのだから)。対象がなくなり「あいだ」がなくなれば、対象との接触にともなう摩擦も緊張も警戒もなくなり、ごく親密なときを、あたかも水の上に身体を浮かばせているかのように、眼球に映像を浮かばせうっとりしているのが映画的甘味な経験であろう。これこそがファシズムを招きこむのだ。そのことをヒトラーもムッソリーニもよく理解していたのだろう。 また、英語で「代表するもの」が「re-presentation(再-現)」であったことも思い出しておこう。そういうことはありえないことは、例えば、まったく同一の細胞を持つクローンでも生きる環境がことなれば、違ったものになることを考えれば十分だろう。つまり、環境が変化すれば生のあり方も変わってしまう。だから、「re-presentation(再-現)」が前提としている変化のない同一の反復はない。それをあたかも可能なものであるかのように思わせてしまうのだから「代表議会制」民主主義は手の込んだ「制度」であることはすでに触れた。官僚の意をくんだもの、または、官僚自身が「代表するもの」となり、あたかも合意の下に決定したかのように思わせてしまう、それが「「代表議会制」民主主義という「制度」である。だから、ことはそういうことだと分かったうえで、そいうものとして対処すればいいだけのことだ。 だが、映画には映画小屋が必要だ。その小屋が区別を作る。小屋の内と外を身体が移動することで、映画を観ていたということを徐々に自覚させてくれる。ここでわれわれは映画を「映画」として対象化し、枠をつけることができる。だが、テレビにはそれはない。なぜなら、テレビにあってはわれわれの身体が壁である。テレビは向こう側から勝手にやってくる。テレビがわれわれを対象化し、一方的に目と対象のあいだの「あいだ」を奪ってくる。ここでは身体が壁であり、映画における壁を通り抜ける身体ではないのだ。 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
by toroom
| 2006-11-12 03:09
| 政治
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