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2006年 12月 31日
(2006年 12月 29日)「民主主義と自由主義」のコメントからの続き
いまや(昔から)、経団連も「無法の法」地帯で、言ってみれば、ただで労働力を使用したいということで、これでは奴隷ですね。とはいえ、これは、単位時間当たりの価格を引き下げる方向に向かっているとも理解できる。それが可能なのは、労働集約型の産業資本はトヨタがなんであれ、斜陽産業の方向にあるのではないか。だから、人手の余剰が起きている。この傾向は加速していくのではないかと思います。いままでも、アジアに安価な労働力商品を買い求め、国内では人材派遣業によってそのアジア化をはかり、それを正社員と非正社員といってごまかしてきたが、ここにきてそれも限界に達し、資本家が馬脚をあらわしてきた。ここにある「正」は社員ではなく、正確には貨幣所有者と商品所有者の違いである。貧富の格差とは、貨幣所有者と商品所有者の違いのことであろう。ここでいう商品所有者とは労働力商品のことです。労働者は労働力の人格的担い手としてあります。しかし、そうなれるのは売れた後のことで、それ以前ではありません。だから、貨幣を所有する場にあるものと、労働力商品を所有する場にあるものには大きな違いがあり、だから、貨幣交換にあって対等でるかのように表象されてきた近代も、実際は貨幣所有者が優位にあるということがいわれていくことだと思います。商品所有者はそれが売れるかどうか分からない。それを決定するのは貨幣所有者です。だから、これは対等でもないし、自由でもない。ここに近代の限界がある。ただ、こういうことがなぜ言われないでいるのかというと、それは、生産-消費の関係だけを取り上げ、ここにある交換関係が無視、あるいは、意図的な隠蔽があったからだと思います。生産-消費関係だけで見ると、交換に付随する交換不可能性が掴めない。すると、価格と価値、資金と資本の違いも分からなくなる。 近代産業資本主義は、先行投資によってもたらされる技術革新による価値体系に既存の価値体系が追いつくまでの時間的な差異から利潤を得てきた。労働者も契約時の価値体系から、自らが作り出した価値体系の時間的差異から会社に利潤を与えてきた。だから、産業資本主義の利潤は「時間」からもたらされるものだといえそうです。また、株式は、産業資本内部における揚棄だといえる。労働力はあくまで商品であり、労働者はその商品の人格的担い手であり執行役員の奴隷ではない。ここに、個人の人格を認める近代があるように思います。だから、株式は執行役員もまた、労働力商品の人格的担い手でしかないことを、その実際において強いていく。こしてみると、産業資本主義にあるのは徹頭徹尾「時間」であり、かくして、年功序列も機能してきた。 しかし、現在進行している事態は、産業資本主義ではなく、それ以前の重商主義時代、つまり、大航海時代の様相に近いのではないか。ここでは、安いものを他の地で購入し、それを他で高く売る。つまり、「時間」ではなく「空間」的な価値体系の差異から利潤を得る方向に向かっている。アジアに安価な労働力商品を買い求めるのもそれではないでしょうか。案外、古い事態なのではないかと思っています。 それと、信用ですね。これも、売れるかどうか分からないことに関わっている。それを観念的に売れたとするのが「信用」貸し、銀行です。銀行は融資します。しかし、その資金投資が回収できるか分からない。売れるかどうか分からない。一度は銀行に買い取られても(担保)、それによって手にした資金は再投資に資本家は回さなければならず、それが売れるのかどうか、分からない。バブルとはこの事態だったと思います。 それと国家です。国家は、警察・軍事官僚機構です。これは、貨幣交換ではなく、略奪・再分配という交換でしょうか。ここでいう再分配は略奪を恒常的に行うための灌漑整備(インフラ)でしょう。このインフラには企業も含まれる。だから、他国からの略奪行為に対し、それを制止しにかかる軍隊がある。自国の企業が買収されかかると、軍事的介入を行い、逆に、他国を買収しにかかる。 更に、ここにナショナリズム、つまり、相酬的交換関係がある。これは永遠性に関係する。例えば、親子関係もこれに関わる。しかし、土地が労働とともに売買の対象となった近代においては、自然循環的な永遠性は既になくなっている。それを国家が代償するかのような観念がナショナリズムといえる。国家の永続性に転化されていく。死者は国家によって祭られることになる。かくして、略奪されていることを喜びとする転倒が生ずる。しかし、それは表象でしかない。国家は略奪・再分配という交換関係であり、ここに、自然循環的な永遠性に基づく相酬的交換関係はないと思います。これを見えなくしてしまっているのが、内面性という装置だと思う。 それが「国語」の開発だった。言文一致とは話し言葉(内面)と書き言葉の一致を志向した。これにより内面性という装置が出来上がっていく。それに伴い、文字というブツ(マテリアル)は意識から消去されていった。消去されるに従って、文字との関係性も消えていく。この役割を担ったのが新聞だろう。なかでも新聞に掲載された小説がそれである。ここでなんでも内面的に処理する言文一致という新たな文体が開発された。それが標準語とされ、かくしてグローバル・スタンダードとなった。その土地の言葉は消去され、方言とされていく。ここにいたって、文字との関係はなくなり、それに従い、関係という他者との関わりもなくなる。あるのは「可愛そうだ」とかなんとかいって独りよがりに内面化に終始する、優しい残酷ばかりのブルジョワ的欺瞞が横行する。「文学」的営みはみんなこれに思えて仕方がない。 そんなことよりも、資本的交換関係(貨幣所有者の優位性)、略奪・再分配的関係(国家官僚)、ナショナリズム(観念的な相酬的交換関係)にそれぞれ制限を加える新たな交換関係を生み出すことの方が急務であるように思えてなりません。方言が跋扈すればいい。外国語に接するような他者経験を近くで味わえる方が面白い。
by toroom
| 2006-12-31 00:30
| 政治
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